本のはじまり

自費出版とは大いなる趣味である。
カメラ好きが高級なカメラやレンズを求めるのも、旅行好きが国内や世界中に旅を求めるのも、山好きがテントや服や靴などを求めるのも、絵を描くのが好きな 人が絵の具やカンバスを求めるのも……いずれの欲求も最初から採算性なき趣味の世界である。本作りへの欲求もまた同じ世界にある。
趣味とは道楽であり、それは文化へとなる。文化とは道楽の行き着く先の塊、クラスターにちがいない。
文化を「文化庁」的視野で見るのはその一面を見ているに過ぎない。むしろ文化(カルチャー)とは「毒」である。しかし人間に必須な「毒」だ。故に為政者は文化を溺愛しつつ突き放そうとするではないか。
自費出版に採算性を求めるのは、「毒」に「毒」を盛り「無毒」化するようなものだろう。
本は作りたいから作るのである、それ自身が目的となって。

記憶からはじまる

プルーストの『失われた時を求めて』を記憶の芸術という人もいます。
主人公の「私」が記憶をたどり、本を書き上げる決意をするまで、翻訳本で全13巻(鈴木道彦 訳 集英社文庫 ※ちくま文庫版全10巻 岩波文庫版全14巻)におよぶ世界文学史上最高傑作とされる小説です。
第1巻「スワン家のほうへ」の刊行(1913年 自費出版)から100年以上経過した現在まで、多くの人々を魅了し続けているこの小説をめぐっては、研究書やエッセイが多数出版されています。
その中の1冊に『プルーストの花園』があります。『失われた時を求めて』から花や庭園などにまつわる文章を引用し、絵本作家である編者マルト・スガン=フォントの水彩画をそえた美しい本です。
この本の前書きの中、編者は以下のプルーストの文章を引用しています。

「あのつつましい通行人つまり夢見る一少年の目は——群衆のなかに紛れこんだ伝記作家が国王を観察するように——自然の片隅、庭の一隅を しげしげと観察するが、そのとき自然や庭は自分たちが、その少年のおかげで束の間に消えてしまうはかない特徴をいつまでも維持して生き延びるようになろうとは思いもしなかったことだろう」
(マルト・スガン=フォント 編・画 鈴木道彦 訳 『プルーストの花園』 集英社)より

本のはじまり

記憶と未来

歴史自身は「いつまでも維持して生き延びるようになろうと」する意志をもちません。
残されなかった多くの人の記憶も沈黙し、「歴史」を語ることはありません。
記録することの大切さ、そして本のはじまりがここにあると考えます。
記憶としての風景と目の前の風景とに広がる忘却の空間。
そこに見出されるのは、時の流れという「現実」の容赦のなさです。
あなた自身の記憶と風景を、本という「未来」にしてみませんか?

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