視点のない新聞を見る視線

新聞を読まなくなった。こんな話をかなり以前からよく聞く。
私自身もあまり読まなくなった。理由を問われれば、つまらないから。このつまらなさは何だろう、と考えながら読む。
う〜ん、入学試験の答案なら高得点まちがいなしなんだろうな。

入学試験の答案とは何だろう、と考えながらまた読む。
読むためにでなく書かれて、文体というものがなくて、参考書からの引用で、視点がなくて、主観がなくて、主体がなくて……。指を折る、ああ退屈だ……。
つまらなさとは退屈さだと気づく。


こんな事を考えていて思い出されたのは、以前雑誌で読んだ新聞社の謝罪会見についての記事だった。
社長以下関係者が揃って深々と頭を下げ続ける姿がテレビに映り、いつ頭を上げるんだろう? みな頭の中で秒を数えてるか? それは30秒か1分か? などと思って見るあの謝罪会見。
これらはすべて、前日の深夜にまでおよぶリハーサルの結果だそうだ。
そのリハーサルでは、コンサルタント業者の指導に従って、頭の下げ方などが繰り返し繰り返し入念に行われるという。
なるほど、ぶっつけ本番ではあの見事なシンクロナイズドされた動作は不可能にちがいない。あの腰、頭、手や目の角度は、分度器で計ったように「丁寧」で「退屈」でなければならない。


就職の面接リハーサルをしている大学生の姿が重なってくる。
膨張し始めた私の脳へと、その大学生が訪れてきたと感じた時にはもう誰の姿もなく、次に見たのは新聞社の面接試験室の椅子に腰掛けている彼らの姿だった。
その一室では、一方に謝罪会見に臨んだ新聞社の重役たち、もう一方に大学生がいて、両者が向き合って視点なき視線を交わしている。
視線に視点を加えてはならない。ただ前を向く。そこに目は持つな。退屈でなければならない。指を折って数える。
どこかで見た視線だと、お互いに感じている。
両者が受けたリハーサルが、同じ業者からであったのなら(たぶんそうだ)、「面白く」て「実のある」会話が弾んだことまちがいなしだ。
新聞を購読する人が減り続けているなんて話もしたのだろうか。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です