『正木ひろし著作集』(三省堂)

図書館の魅力はまだ知らぬ本や著者との“未知との遭遇”はもちろんだが、思わぬ本との再会にこそある気がする。人は本と再会することで過去と今の自分を知ることになる。図書館の本の検索機はそんな橋渡し役だ。
検索機のモニタ上にそんな再会が訪れると、懐かしき書名や著者へと引きつけられていって、目的の本そっちのけで当時の様々なことへと誘いはじめる。

再会したのは正木ひろしだった。
『正木ひろし著作集』全六巻(編者 家永三郎 佐伯千仭 中野好夫 森永三郎 三省堂)。

正木ひろし著作集は絶版なようだ。図書館ありがとう!

映画に貪欲だった高校時代、「参考文献」にしていた一冊に『日本映画名作全史 戦後篇』(猪俣勝人著 現代教養文庫)があった。戦後の数々の名作邦画が紹介されたこの本に映画『真昼の暗黒』(監督・今井正 1956年)が載っていて、原作者が正木ひろしで弁護士とあった。この名を知ったのはその時がはじめてだったと思う。この本は今も手元にあるが、結局この映画を見ることはなかった。

借りた『正木ひろし著作集』は、最近ではあまりお目にかかれない立派な体裁でA5版。弁護士事務所の本棚に並ぶ法曹関係書といった風格だ。
ブックケースはないが多分あったろう、臙脂色の表紙は用紙自体の美しさが活かされて、書名と著者名のみが背に箔押しされ金色が美しい。花布はクリーム色で栞はない。本を開くと糸でかがってある。最近は製本技術の向上で糸かがりも減っているようだが、開閉の頻度が多かったりページ数の多い本には必要となる。不特定多数が使用する図書館の本にとっては、本を丈夫で長持ちにしてくれる“糸かがり”は強い味方になる。など考えつつ……
そして思い出す。図書館へ来た今日の目的は本の問い合わせのためだったのを。これはいかん! そっちのけだ。頭の中からは正木ひろしも消し去っている、こっちもそっちのけだ。

まぁあわてるな、とも思う。本のテンポは社会とズレているものだ。否、でなければならない。本の持つ時間は人間本来の持つ時間に沿っているからこそ本を読み、そして考えるのではなかったのか。
路地裏に入らずして旅は語れない。路地裏に入って旅の密度は何倍にも膨らむ。路地裏万歳!
想いのまま流されてみる。黒澤明、小津安二郎、溝口健二、大島渚、今村昌平、浦山桐郎、勅使河原宏、武智鉄二、吉田喜重…などなど日本映画の巨匠たちの名前が広がって作品へと導く。
正木ひろしとは帰宅してゆっくり再会すればよい。

追記*自費で本の出版を考え迷っている方は、ためらわず図書館への直行をお薦めします。きっとあなたの本があるでしょう。

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束見本を作るひと

束見本。それは誰がどのように作っているのだろう?
束見本は通常二、三冊しか制作しない。また本の仕様はそれぞれ異なることから大量生産向きの大型機械にご登場は願えない。
よって職人さん、人の手にお願いする事となる。


本文、カバーなどの印刷物、花布(ヘドバン)やしおり(スピン)など、本に必要なすべてが集まってくる所が製本工場だ。その広い構内には多種多様な大型の機械がズラッと並び整然と規則的に動いている。その片隅に黙々と働く職人さんの姿を見ることができる。
職人さんの机の上には細かな本の各パーツがたくさん並んで、ひとつひとつが手で本に組み立てられてゆく。工場から響く音の中にあっては、異なった時の流れをその手の動きは醸し出しているように感じてくる。
デジタル化の流れにさまよう紙の本ではあるけれど、その本というカタチがずっと続いてゆくよう思えた気がしたのはノスタルジーだけではないはずだ。

どこから見ても表情はヒトしだい

職人さんの中には、手作り本の工房をされている方もいると聞いた。
丁寧に作られたオリジナルな一冊は、依頼者からの大切な視線の元、新たに生まれ変わって存在し続けてゆくのだろう。


束を確認するためだけに生まれてきた本としての束見本が、出版社の机や本棚の隅っこにあるのを見かけたりする。
その定位置で、商業出版と自費出版での異なった空気や時間、それぞれの光の当たり方の違いを見せてくれたりする束見本。
真っ白な紙の連続する読むためでないその本のページをパラパラとめくりながら、いつの日かきっと「誰か」が「何か」を記しているだろう、書(描)いているだろうと想像してみるのは楽しい。
じっと目を凝らす時節である。もしかしたら見えないだけで、何かが書かれているのかもしれない。

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束見本を作りましょう

自費出版の依頼者の多くは著者で編集者だから、書く事と読む事に全神経が集中するあまり、本の見た目へまで気がまわらないことはよくある。
手元にある本からくる、漠然とした「こんな感じ?」程度のイメージだろうか。

「この本の見た目って……、どんな感じになるのでしょう?」
こんな依頼者からの質問を「ひょいっ」とした感覚の意外性に感じてしまうのは、コチラ側もうっかり気がまわっていなかったせいもあるのだろう?
遠慮気味でボソッとした声が聞き取りにくく感じるのも、出版社とのやりとりでは無い声のトーンのせいだろうか?
「ああ、それはですね……」
まるで子供に本質的な質問をされ、困惑気味なラジオの大人の声を聞いているようになっている。
大人より子供の方が優れていることを感じさせられる、「偉大な瞬間」なのかもしれない。
しかしそこには、調性がない? 無調? 十二音技法?
感じた脳は、さっそく内側で語りはじめる。

「俺は知ってるよ。だけど良い子はそんな質問はしないもんさ」
「分かったつもり」を知っている大人たち。
「分かったつもり」を知らない子供たち。

「この本の見た目って……、どんな感じでしょう?」

大歓迎すべき声だ(でなければならない)。
正気に戻る。
「本の作り直しは製本後はできません。できてからのお楽しみではとても不安なのは理解できます」

「そんな方へは束見本をプレゼントいたしましょう」

束見本。その名の通り束(本の厚み)を知る目的で作られる見本として生まれた本。特別なことでなく、出版社からフツーに依頼されている本。

用紙の厚さは仕様書に表記がされてるから、束見本無しでも算出可能なので必ず作るものではない。
ただし最近は減ったが、箱(ブックケース)のある本は必ず作らなければならない。
箱が大き過ぎると緩くて本が落ちてしまう。小さ過ぎるとキツくて本の出し入れがやっかいだ。どちらにしても本を痛めてしまう。

この束見本。表紙も本文もすべて印刷されていないけれど、素顔の本とでも表現するべきか立派でカッコいい。
用が済んでほこりをかぶった姿の束見本を、出版社の本棚や机上で見かけることがよくある。その本を手に取り開いてみる。インクで汚されていない無垢な紙が目の前で広がると大変に美しいのだ。
この紙はどこかの国の、どこかの森林で一本の木としてどれほどの時を過ごしてきのだろう? その一本の木を想像することができるだろうか?

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何も書かれていないのは、何かが始まるのか? 何かが終わったのか?