ゴミ捨て場で読書する

ゴミの集積所で本たちを目にする時がある たいていは数冊で紐で結われている。
かつては書店の本棚で背文字を見せつけ、ヒトの視線を浴びていた本。
かつては一字一句、ヒトの視線に追われていた本。
今では路上に積まれ、収集車のお出迎えを待っている。

コロナウイルスの影響下、家庭ゴミが増える一方で、飲食店の休業が相次いだ繁華街ではゴミの減量が凄まじかったようだ。
「コロナでごみ激減、窮地の収集業者 感染リスクに不安も」(2020年6月2日配信・朝日新聞)
https://www.asahi.com/articles/ASN6236Q9N5QUTIL05C.html

食品ロス、ゴミの廃棄、焼却場などの問題が言われて久しい。誰もがゴミの減量は良いと思っているに違いない。が一方では、ゴミが減ると生活できなくなる人たちもいる。
見回せば、ほとんどのヒトは矛盾だらけに囲まれ生きていたということだろうか。

自然環境も、ヒトがわざわざ環境保護運動なんてしなくとも……。
「人が出ないと、現れた 街に動物・澄んだ水・青い空、…コロナ余波」(2020年4月19日配信・朝日新聞)
https://www.asahi.com/articles/DA3S14447645.html

原発事故の起きた福島・双葉町にかつてあった標語を思い出す。
「原子力明るい未来のエネルギー」
一部のヒトの間では、事故後の現在でも「未来のエネルギー」らしい。
新しい標語が待ち遠しい。それは「明るい」のか「暗い」のか。

「モノは使い捨てにしましょう。そして経済を回しましょう」
コロナウイルスはヒトが使い捨てだったことを明るみにした。
「モノもヒトも使い捨ての時代です。働けるだけ働いたらなるべく早く死んで経済を回しましょう」

記憶は人から消えゆき、人は記憶から消えゆく。
ゴミを収集するヒトとお迎えを受けた本、使い捨て同士が集積所で出会って焼却場へと走り去る。

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モノを簡単に捨てるヒトも捨てられる

束見本を作りましょう

自費出版の依頼者の多くは著者で編集者だから、書く事と読む事に全神経が集中するあまり、本の見た目へまで気がまわらないことはよくある。
手元にある本からくる、漠然とした「こんな感じ?」程度のイメージだろうか。

「この本の見た目って……、どんな感じになるのでしょう?」
こんな依頼者からの質問を「ひょいっ」とした感覚の意外性に感じてしまうのは、コチラ側もうっかり気がまわっていなかったせいもあるのだろう?
遠慮気味でボソッとした声が聞き取りにくく感じるのも、出版社とのやりとりでは無い声のトーンのせいだろうか?
「ああ、それはですね……」
まるで子供に本質的な質問をされ、困惑気味なラジオの大人の声を聞いているようになっている。
大人より子供の方が優れていることを感じさせられる、「偉大な瞬間」なのかもしれない。
しかしそこには、調性がない? 無調? 十二音技法?
感じた脳は、さっそく内側で語りはじめる。

「俺は知ってるよ。だけど良い子はそんな質問はしないもんさ」
「分かったつもり」を知っている大人たち。
「分かったつもり」を知らない子供たち。

「この本の見た目って……、どんな感じでしょう?」

大歓迎すべき声だ(でなければならない)。
正気に戻る。
「本の作り直しは製本後はできません。できてからのお楽しみではとても不安なのは理解できます」

「そんな方へは束見本をプレゼントいたしましょう」

束見本。その名の通り束(本の厚み)を知る目的で作られる見本として生まれた本。特別なことでなく、出版社からフツーに依頼されている本。

用紙の厚さは仕様書に表記がされてるから、束見本無しでも算出可能なので必ず作るものではない。
ただし最近は減ったが、箱(ブックケース)のある本は必ず作らなければならない。
箱が大き過ぎると緩くて本が落ちてしまう。小さ過ぎるとキツくて本の出し入れがやっかいだ。どちらにしても本を痛めてしまう。

この束見本。表紙も本文もすべて印刷されていないけれど、素顔の本とでも表現するべきか立派でカッコいい。
用が済んでほこりをかぶった姿の束見本を、出版社の本棚や机上で見かけることがよくある。その本を手に取り開いてみる。インクで汚されていない無垢な紙が目の前で広がると大変に美しいのだ。
この紙はどこかの国の、どこかの森林で一本の木としてどれほどの時を過ごしてきのだろう? その一本の木を想像することができるだろうか?

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何も書かれていないのは、何かが始まるのか? 何かが終わったのか?

視点のない新聞を見る視線

新聞を読まなくなった。こんな話をかなり以前からよく聞く。
私自身もあまり読まなくなった。理由を問われれば、つまらないから。このつまらなさは何だろう、と考えながら読む。
う〜ん、入学試験の答案なら高得点まちがいなしなんだろうな。

入学試験の答案とは何だろう、と考えながらまた読む。
読むためにでなく書かれて、文体というものがなくて、参考書からの引用で、視点がなくて、主観がなくて、主体がなくて……。指を折る、ああ退屈だ……。
つまらなさとは退屈さだと気づく。


こんな事を考えていて思い出されたのは、以前雑誌で読んだ新聞社の謝罪会見についての記事だった。
社長以下関係者が揃って深々と頭を下げ続ける姿がテレビに映り、いつ頭を上げるんだろう? みな頭の中で秒を数えてるか? それは30秒か1分か? などと思って見るあの謝罪会見。
これらはすべて、前日の深夜にまでおよぶリハーサルの結果だそうだ。
そのリハーサルでは、コンサルタント業者の指導に従って、頭の下げ方などが繰り返し繰り返し入念に行われるという。
なるほど、ぶっつけ本番ではあの見事なシンクロナイズドされた動作は不可能にちがいない。あの腰、頭、手や目の角度は、分度器で計ったように「丁寧」で「退屈」でなければならない。


就職の面接リハーサルをしている大学生の姿が重なってくる。
膨張し始めた私の脳へと、その大学生が訪れてきたと感じた時にはもう誰の姿もなく、次に見たのは新聞社の面接試験室の椅子に腰掛けている彼らの姿だった。
その一室では、一方に謝罪会見に臨んだ新聞社の重役たち、もう一方に大学生がいて、両者が向き合って視点なき視線を交わしている。
視線に視点を加えてはならない。ただ前を向く。そこに目は持つな。退屈でなければならない。指を折って数える。
どこかで見た視線だと、お互いに感じている。
両者が受けたリハーサルが、同じ業者からであったのなら(たぶんそうだ)、「面白く」て「実のある」会話が弾んだことまちがいなしだ。
新聞を購読する人が減り続けているなんて話もしたのだろうか。

いつもの朝に ネコの目からパンダ

今まで
見て見ぬ振りをしてた人。
そして今
見て見ぬ振りをされてた人になった人。


いつもの朝に
遠くをみるネコをみかけた。
いつもの庭の石の上


「How does it feel    どんな気がする
 How does it feel    どんな気がする」

(Like a rolling stone BOB DYLAN 訳 片桐ユズル)

みんな自然の一部なのよん!


ネコの口元が緩んでる。

本ができあがるまでの日数〜「頭の中はもっと広いでしょう』〜

本の依頼をされる方との会話の中で、必ずでてくる言葉があります。
「で、本はいつできます?」


自費出版であれば、問う方は依頼者であると同時に著作者です。
よって「著作者のあなた次第です」がその答えになります。
もちろんこんな突き放す言い方でなく、本の制作過程をご説明する会話の中へ軟らかく挟み込んでお話します。


つまり本の制作日数のほとんどは原稿の修正や校正なのです。
ゲラの修正は制作会社の仕事だとおっしゃる方もいるでしょう、もちろんそうなのですが、その修正日数を決定するのも著者の訂正の多い少ないによるのですから、本ができるのは「著作者のあなた次第です」との答えに変更はありません。
(以下を参考にしてください。https://sankyobooks.jp/sankyo/kumiban.html


これは著者の関わる作業は、スケジュール通りにゆかないということを表しています。
一方、著者の関わらない作業(印刷〜製本〜納入)はスケジュール通りゆく、日程を計算しやすい工程だと言えます(およそ2週間もあれば可能でしょう)。


よって大雑把ではありますが、以下の方程式(?)がたちます。
著者の関わる作業(校正などゲラチェック) + 2週間(印刷〜製本〜納入)= 本の制作日数


こんな事を書いていたら脈絡もなくふと思い出されてしまったのが、夏目漱石『三四郎』の1シーン、主人公・三四郎が大学へ這入るため熊本から東京へ向かう列車の中で出会った髭の男(後に広田先生として登場)との会話です。


『「熊本より東京は広い。東京より日本は広い。日本より……」で一寸切ったが、三四郎の顔を見ると耳を傾けている。
「日本より頭の中の方が広いでしょう」と言った。』
(夏目漱石『三四郎』 新潮文庫版より)


原稿を読んだり校正したりをする頭の中も広いでしょう。
その広さは人の創造力・想像力の広さの中にあるものでしょう。
意識もあれば無意識もあったりと、この厄介な頭の中はふと何かを思い出したりして脇道に逸れることもしょっちゅうなんてことはないでしょうか(こうしている間にも『ボブ・ディランの頭の中』という映画が、次には最近出た『ボブ・ディラン著 佐藤良明訳『The Lyrics 1961-1973』『The Lyrics 1974-2012』 岩波書店』読みてぇ と頭の中に広がってしまってる)。

「頭の中は広いでしょう」


「日本より広い」のですから、本人でさえ知らない無尽蔵なものが潜んでいるのでしょう。
そんな頭の中にスケジュールを入れたところでそもそも無理がある。と考えた方がよさそうです。
待つ事1週間。で済む事もあれば、一ヶ月、それ以上。はたまた忘れた頃(笑)。
焦ったところで仕方もなく、こちら側でただ待つのみです(戻って来たら急かされるんだろうな(涙))。
まぁそんな頭の中をもっているからこそ、本を作ろうと思ったりするのでしょう……。

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本の出版で大切な用紙の選び方

本の本文で使用する紙の選択はとても重要です。
どんな本を作りたいかが、紙を選ぶ基準になるからです。
紙は洋紙店から見本帳といったものが提供されていますが、その種類は膨大な数におよびます。
だからといってその膨大さに迷うことはありません。
作る本の目的が、用紙を容易に決めてくれるものです。

見返しはカラフルすぎる

以下、A~B~Cと希望する項目を選択して下さい。
概ね当てはまると思います。
大雑把だなと思われたでしょうか? 本来の目的から逸れないようにするには、大雑把が最良の方法の場合もあります。

A (本の内容)
①文字の本(読むのが主体)
 小説 エッセイ など
②写真、絵、イラストの本(見るのが主体)
 写真集、画集 絵本 など
③文字と写真(読むのが主体、画像はその説明、解説など)
 マニュアル本、教科書 など

B(どう見せたい)
①読みやすい
②きれいに見せたい
③上記のどれでもなく、紙自体にも作品性を求める

C (印刷の適正)
①一色刷(スミ(黒))
②二色刷(スミ+他一色)
③四色刷(カラー)

例えば「写真」を「キレイ」に「カラー印刷」した本を希望するならば、
写真がメイン A②
キレイに見せたい B②
四色刷(カラー) C③
となり、用紙選びの方向が決まってきます。

しかし上記希望の上質な写真集には質の高い用紙が欠かせません。
どんな用紙でも使えるのなら問題はありませんが、質が上がれば用紙の価格も上がってしまいます。
ですから希望に加えて、用紙コストを考慮した紙選びをすることになります。
できるだけ安価で質の良い印刷をするためには、紙の専門家である洋紙店の方との相談が必要です。
質とコストから数種類の用紙を提案してくれますので、その中から選択してゆけば希望に近づけるでしょう。
用紙については他に細かい点もありますが、それは後々決めてゆけばよいことです。

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本のカバー作りは余白が大切

本のカバーは文字だけがいい。
写真やイラストの奇麗なカバーが目を引くのはもちろんで。
タイトルだけのカバーに魅力を感じる人はたぶん少ない。
でも本にはせっかく名前(書名)がついている。写真やイラストに隠れてばかりじゃちょっと……ね。


だけどタイトルだけの本ばっか並んでても味気ないじゃない。とおっしゃる方々心配ご無用。そんな事にはなりません。
やっぱり本だって売れたいし、売れればうれしいし、読んで欲しい。
売れなきゃ本がぱったりって人がいる。現実的なはなし。


それでも文字だけのカバーこそ愛すべきパートナーなんだ。とこの頃思ってしまう。
いつ頃がこの頃か、憶えてないけれど。
デザインは本と一緒でも、デザインそれ自体であってほしい。
本は読めばわかるのだから。
どうぞ手にとり、どうぞ読んでください。
その時々の愛する一冊くらいはみつかるでしょう。たぶん。


アクティブな余暇もいいけど、丸まって本と過ごす余暇もよいものです。
そう余暇。文字だけのカバーも余暇いっぱい余白いっぱいです。
本はそもそも余白のあつまりなんですから。
余白の余は「余り」でもあって、「余裕」でもあって。
「余り」は捨ててしまわずに、「余裕」をもって落ち着きください。
余った時間は「暇」ではなくて「自由」にしましょう。
文字が余白と溶け合いひろがったら、答えてくれる。

シロナガスクジラは地球上で最大の生物


余白が海となって凪いでくる。文字が島となって海に浮かんでくる。
指でその島の間をなぞっていったら、クジラになって泳ぎはじめた。
ゆったりゆったり、自由なクジラが、本の中へと潜ってゆく。

仕事中うとうとした時に見た夢の話し……。

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新型コロナウイルスの時代のガルシア=マルケス『コレラの時代の愛』

カミュの『ペスト』(新潮文庫)がベストセラーになったのは新型コロナウイルスによるそうだが、その影響で私が再会したのはガルシア=マルケス『コレラの時代の愛』(木村榮一訳 新潮社)である。

この新型コロナウイルス流行の経験が、次の時代に良い影響を与えるはずだと信じたい。

オビの文「51年9ヶ月と4日、男は女を待ち続けていた……。」(ガルシア=マルケス全小説 初版2006年10月30日発行)からはロマンチックで美しい小説を連想するけれど、それだけでなく欲望とエネルギー満ち溢れる人間の生々しい臭いがとてつもない作品だと思う。

ラストは主人公とヒロインの乗船した川船がコレラのために行き先なく漂い、主人公が確信を持って船長に言う言葉が感動的で、川が永遠の流れへと繋がるのだった。

しかし個人的に最も記憶に残っているのは美しい場面ではなくて、主人公が51年9ヶ月と4日待ち続けた女性と夫との間におきた話しである。

「はじめて小便の音を聞いた男性は夫だった。新婚旅行でフランスに向かう船のキャビンで、(中略)馬の小便を思わせる力強い音を聞きながら、自分の身がもつだろうかと不安になった。」(『コレラの時代の愛』より)

その後夫婦の間でトイレをめぐり様々な諍いがつづき、夫は「家庭の平和を乱さない」よう便器を使用するたびに拭くという本人にとって「屈辱的な行為」をするのだが、最終的な解決法として「妻と同じように便器に座って用をたすこと」になる。

なぜこの箇所かといえば、その頃にある女性宅を訪ねトイレを借りた時に言われた言葉が読書中に思い出されたからであった。

「使用後は必ずフタを閉じて!」

便器のフタを閉めないでトイレから出た事に対しての女性のキツイ一発だった。

この小説を読んでからは主人公を見習って一歩進歩し(公共施設などの小便器前には《一歩前へ》と書いた貼り紙を頻繁に目にする)、《女性宅のトイレでは座って、音を出さずに用を足すこと》と私のルールブックには加筆された。

似たような経験をされた男性は多いのではないでしょうか? 

『ウイルスの驚異 人類の長い闘い』

東京新聞電子版に「WHO、「パンデミック」と表明 新型コロナ、終息見通せず」(2020年3月12日)との見出しが、ふとある本を思い出させた。

『ウイルスの脅威 人類の長い闘い』(マイケル・B・A・オールドストーン著 二宮陸雄訳 岩波書店)。

「ウイルス疾患は常に脅威でありつづけている」(『ウイルスの脅威 人類の長い闘い』より)

奥付は「1999年12月16日 初第1刷」だから、新型コロナウイルスの感染が広がる今から20年前発行。

本書「はじめに」では、ウイルスが人類に与えた甚大な影響が書かれてある。

これが凄まじい。

天然痘、黄熱、麻疹、ポリオ、ラッサ熱、エボラ、ハンタ、エイズ、インフルエンザ……これらウイルスの大流行が、今の「世界地図」を作り、今の「世界史」を書いたのだと言っても過言でないことが書かれている。

私たちが「世界史」「人類史」と呼ぶ本の共著者はウイルスだったのだ。

そして今また、新しいウイルスに人の歴史はさらされている。

「ウイルス性伝染病の歴史には、人間の恐怖と迷信と無知が織りこまれている。」

(『ウイルスの脅威 人類の長い闘い』より)

マスクやトイレットペーパが店頭から消えたパンデミックの中、読むべき今の一冊だろう。

府中市美術館『青木野枝 霧と鉄と山と』

新型コロナウイルスの影響で美術館・博物館などの休館が相次ぐ中、府中市美術館へ『青木野枝 霧と鉄と山と』を観に行った。
タイトルの「霧」と「山」は自然であり、「鉄」は自然にとって異物である。「自然」に両側からはさまれた「鉄」は何を語るのだろう? 
会場に置かれたプリントには以下の作家の言葉があった。

「鉄は私にとって木の枝であり、骨であり、氷である。そしていつも内部に透明な光をもっている」
(『青木野枝個展カタログ』資生堂企業文化部 1994年)

美術館エントランスへ入ると巨大な二つの塔が聳え立っている。鉄と波板で作られたタイトル《霧と山》だが、このタイトルに「鉄」はなかった。
この作品背後のエスカレータで2階の展示会場へ昇って行く。

府中市美術館『青木野枝 霧と鉄と山と』会場エントランス。 展覧会場へつながるエスカレータ横の作品『霧と山ーⅠ』 その巨大さがわかる。

ガラス貼りの壁に波板がぶら下がる白で統一された室内。展覧会タイトルと同名の巨大な鉄の山《霧と鉄と山 Ⅰ》が座していた。
鉄の環が上へと積み重ねられ山を築いている。その鉄の環は別の鉄の環と90度で交わりひとつの環になっていて、その幾つかには曇りガラスがはめ込まれている。
モノには前と後ろがあるのだが、山にも前と後ろがあるのだろうか。そうでないのなら、人は常に山の前と後ろを同時に見ていることになる。そのせいだろうか自然とこの周囲を回って見ている。他の人々も同じく回って見ているのも目に入る。
そのうち目の中に作品越しの他者が入りんできて、交わり、重なり作品に別の姿が現れてくる。
誰もが外側にいるはずなのに、自分自身以外は内側へと入り込んでしまったかに思われ、一人残された自分を強く意識すると山はカゴにもオリにも見えてくる。
《カゴの中の人》あるいは《カゴの外の人》。
オリの中が圧倒的多数であるなら、人は自ずとオリの中へ入っていくのだろうか?
愛情のカゴ。管理のカゴ。抱擁のカゴ。囚われのカゴ。
つづく作品《霧と鉄と山 Ⅱ》も同じように鉄の環が山を築いているが、こちらの環は《Ⅰ》に比べて交わる環も無くひとつで小さく、その幾つかに同じくはめ込まれるガラスは曇りガラスに代わり黒いガラスである。
上へと伸びている鉄の環は、山の上部から分かれて二本のウサギの耳のような形を成し、内部に閉ざされた何かがそこから外部へと飛び立ってゆくかにみえる。
飛び立った何かは、2012年から展開しているという白い石膏の作品《原形質》シリーズなのだろうか。
複雑に絡み合った鉄から一転して真っ白でシンプルな石膏。その白い作品は内部に鉄を擁す皮膚なのか、または鉄の中から抉りだされ生成してきたものか。
無垢な大地の生命か、廃墟の生命か、始まりか、終わりか……。
作家はこうも語っている。

「私には世界がこう見えている。
でも、もちろん他の人は違う。
みんな違うということを言っていきたい。」
(展覧会パンフレットより)


展覧会のタイトル『青木野枝 霧と鉄と山と』の「山と」の後に続く言葉を「創造せよ」との作家の声が聞こえた気がした。
「みんな違う」と言うのだから、それぞれの山を上へ上へと自由のキャパを広げてゆけばよいのだろう。
ひとつ希望をいうならば、作品の中へ自由に出入りしたかった。
作品の中へ入り込めたなら、内側から外側を見れたなら……。
あの《原形質》から次は何が……、好奇心は尽きない。
この美術館はコンサートホール、スポーツ施設から斎場、火葬場まで備えた「都立府中の森公園」の片隅にある。かつては米軍基地だったという。