図書館からの帰りに隣接する公園で見たのは、無造作に切られた一本の木の死にゆく姿だった。年輪をさらされても歳を語らないで在る。
切られて間もないのか、その年輪はぱっくりと空を見上げ、太陽の光が樹齢を刻むそこを照らし艶っぽくみえる。
図書館から借りて来た手に持つこの数冊の本たちも、かつては太陽に恵まれた森の中で生きる木だった。木は森で育ち紙が生まれ、その紙を束ねて本になる。
子供の時も本の仕事をするようになった今でも、本はいつも側にあって、紙への愛着がある。
仕事場の本棚には紙の見本帳が並んでいて、その中から用紙を選びだしてくれるのは本自身だ。用紙の種類は膨大だが、木の種類の豊富さに比べれば小さい世界に過ぎない。
人はその紙へと言葉やイメージをインクで満たし、紙は本となって読む人の好奇心や知識を拡げ満たしてくれる。
木に比べ本の命は短いけれど、人のそれはもっともっと短命だ。
人の多くは記憶を残さず終止符をうったが、本を作る事は欲していたはずだ。わずかな人の記録は本に残されたが、時間と空間を超越できた本はさらに少ないだろう。
マルクスの残した『資本論』はそんな生き抜いてきた本の一冊だと思う。
最近、この難解な『資本論』について書かれた、『人新世の「資本論」』(斉藤幸平著 集英社新書)や『武器としての「資本論」』(白井聡著 東洋経済新報社)といった解説本がよく読まれていると聞いたからだ。
『資本論』はこの先も、累々と積み重なる挫折者の山を築いてくれるにちがいない。
紙となる木を、マルクスなら何と表現するだろう。